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Foresight in sight

日本ユニシスについて

日本ユニシスグループの歴史

ENIAC誕生50周年記念 −その歴史を追って−

情報化時代の幕開け VOL.3

ENIACの電子基板を手にするアメリカ陸軍のハーマン・ゴールドスタイン(Herman Goldstine)(左側)とプレスパー・エッカート
ENIACと電子式計算の革新
1940年代に入り、第2次大戦は熾烈を極めてきた。一方電子的な計算のための計算技法も飛躍的に進歩する状況がが整ってきた。ペンシルバニア大学のムーア電気工学科(Moore School of electrical engineering)ではとりわけ創造的な土壌が育まれていた。
同大学には電子機械器具の設計講座が設けられ、微分解析機や最新技術を採用した計算機械群が、国家の非常事態を打開するためにフル運転されていた。米陸軍の女性補助部隊(U.S.Army's Women's Auxiliary Corps)の多数の若い数学者が動員され、ここで弾道計算が行なわれていた。
第2次大戦では戦争の形態が急速に変化し、これに対応して大砲の設計も急激に変化した。
このため、同部隊の計算処理能力を超えた計算量が必要になってきた。
平時であれば、当時弱冠32才のジョン・モークリーと23才のJ.プレスパー・エッカートが考え出した着想は、非現実的なものとして受け入れられなかったであろう。また彼らの着想である、ENIACの開発はあまりにも費用が掛かりすぎるという理由で拒否されたにちがいない。
ジョン・モークリーには、計算する機械への興味と“気象問題”を解くという夢があった。彼がそうしたことに興味をもったのは、ワシントンの高名なカーネギー研究所(Carnegie Institute)で同様な問題を研究していた父親の影響があった。
気象学の研究には膨大な統計データを計算する必要がある。
モークリーはいつも、機械式卓上計算器よりも、はるかに大量かつ高速に計算できる方法を求めていた。
その当時アーシナス大学(Ursinus College)の物理学教授であったモークリーは、すでに冷陰極管の可能性に注目していた。それは、高出力真空管よりも速度は遅いが、演算能力に余裕があり、価格は手ごろで、電力消費もはるかに少なく、開発プロジェクトの管理もし易くなるものと見込まれたからである。
ENIAC開発の背景には大砲の砲弾の軌跡(弾道)をもっと高速に計算したいという米軍のニーズがあった
しかし、モークリーのデジタル電子回路の開発ははかどらず、彼の気象学研究の助けにはならなかった。このため、彼は“調和解析器”(harmonic analyzer)と呼ばれるアナログ装置を造った。その時点でもなおモークリーは、自分は気象学者であって、本来はコンピュータの専門家ではないと思っていた。
ほとんどの気象学者は彼の理論は真偽のほどが疑わしく、証明も難しいと思っていた。実際、モークリーは、気象学者達は“調和解析器”による統計処理結果をまじめには受取らないだろうと思っていた。
1940年に、ペンシルバニア大学で「科学の発展のためのアメリカ協会」(American Association for the Advancement of sience)の大会が開催された時、モークリーは気象統計に関する論文を物理学部門に提出した。このときモークリーの論文に興味をもったのがアイオワ州立大学のジョン・アタナソフであった
モークリーとアタナソフは、その後折をみては、相互の関心テーマについて意見を交わしている。
ジョン・アタナソフと、大学院生であったクリフォード・ベリーが開発した機械は、特別な目的用に開発されたコンピュータではあったが、計算装置の心臓部である加算と乗算の演算の実行には、すべて電子回路が使用されていた。
モークリーは1941年にアタナソフとベリーを訪ねて彼らのコンピュータをじっくり見学した。
前述したように、アタナソフ−ベリー・コンピュータはデータや中間の計算結果を保存する電気機械装置がネックになって計算速度に限界があった。このことにモークリーは落胆したが、一方で、資金さえあればもっと大きな“電子が計算する機械”を造ることは可能であるという確信を強めさせた。
*このコンテンツは、ENIAC誕生50周年を記念し、平成8年10〜12月に作成/公開したものです。