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Foresight in sight

日本ユニシスについて

日本ユニシスグループの歴史

ENIAC誕生50周年記念 −その歴史を追って−

情報化時代の幕開け VOL.4

ENIACの主制御パネル
アメリカが1941年に第2次大戦に参戦すると、ムーア・スクールの電気工学科では、かなりの教職員が、軍の秘密研究プロジェクトに移ったり、軍役に就くために同校を去って行った。
一方で、ムーア・スクールは、政府から支援を受けて、電子工学科や他の学科で工学、科学、戦争管理の訓練プログラム(Engineering, Sience, and Management War Training program(ESMWT))を開始した。現代戦を遂行するには、格段に増えた精巧な武器を操作する人間を育成・訓練する必要があったからである。
モークリーはすでにアーシナス大学の教授であったが、最新の電子装置と電子技術を学ぶためにこのプログラムに参加した。
ペンシルバニア大学では、軍役に招集された教授に代わって、博士号をもった2人のメンバーがESMWTプログラムに加わった。
ミシガン大学のアーサー・バークス(Arthur Burks)博士と、ジョン・モークリーである。
一方、当時“ムーア・スクールの最も輝かしい大学院生”、“ムーア・スクールの最高の電子工学技術者”とされていたのが、まだ20代はじめのジョン・プレスパー・エッカートであった。
エッカートはすでに、磁場を測定してその情報をフィルムに記録する電子装置を開発していた。アメリカ海軍は、こうした用途には、それまで電子装置ではなく、磁気装置を使用していたが、エッカートの装置を採用して空挺部隊による機雷掃海作業の効率を向上させている。
さらにエッカートは、 回折模様を利用してフィルムに音を記録する方法を開発して特許権を取得し、発明家の道を歩みはじめていた。
1941年の夏、エッカートはまだ大学院生であったが、ESMWT講座に付設された電子工学研究室の助手に採用されることになった。
ESWMTでのモークリーの仕事はアーシナス大学で教鞭をとっていた頃とそれほど違わなかった。おかげで、モークリーは主要な関心事である高速計算問題に電子工学技術をどう応用するかについて、エッカートと討議する時間を十分確保することができた。
モークリーとエッカートは、レストランの片隅でコーヒーをすすりフルーツ・パフェを食べながら、あるいは微分解析機があったムーア・スクールの一部屋で議論を重ねた。
フィラデルフィアの暑い夏に、その部屋だけがムーア・スクールで唯一空調があったからである。
モークリーと討議を重ねるにしたがって、エッカートは「電子が計算する」という着想(idea)は実現可能であると確信した。
彼はもてる工学的創造性と、能力のすべてを駆使して、課題の核心に狙いを定めていった。
一方、モークリーは、エッカートの感受性に啓発され、自分の着想の実現可能性を、1942年に“真空管装置の計算への応用”という表題の5ページの論文にまとめた。
モークリーは、弾道学上の問題解決、すなわちいかに迅速に弾道表を作成するかが、ムーア・スクールの使命であることを十分認識していたのである。
事実、新しい大砲の弾道表を一刻も早く作成したいという要求は日増しに強まり、弾道計算をより高速に行う方法を発見することが喫緊の課題となってきた。
軌道計算には卓上計算器で40時間かかっていた。同じ問題がもっと精巧な微分解析機では30分で完了した。しかし、ムーア・スクールにはそのような機械はたった1台しかなかった。
弾道表の作成には、何百という砲弾の軌道を計算しなくてはならないので、新たな大砲1門の弾道表を作成するには1ヶ月かかった。
モークリーはこの報告書の中で、毎秒1000回の乗算を実行できる電子式機械では弾道表は、数日はおろか数分以内で作成できるだろうと論証した。
*このコンテンツは、ENIAC誕生50周年を記念し、平成8年10〜12月に作成/公開したものです。