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Foresight in sight

日本ユニシスについて

日本ユニシスグループの歴史

ENIAC誕生50周年記念 −その歴史を追って−

情報化時代の幕開け VOL.5

ENIACは重量が30トンを超え、15,000平方フィートの床面積を占めた。
1943年に連合軍は北アフリカに上陸した。そこには、今まで砲兵が見たことのない地形が展開されていた。軍は急遽弾道表をほとんど全面的に修正しなくてはならなくなった。軍の要求は計算器の処理能力を上回り、弾道表の作成はますます間に合わなくなってきた。
この緊急事態が電子式ディジタル・コンピュータの開発を急がせる決定的なきっかけとなった。
しかしなお、モークリーの提案を軍需品部(Bureau of Ordnance)が取り上げるまでには、当時アバディーン(メリーランド州)実験場(Aberdeen Proving Ground)にあった弾道学研究室(Ballistics Research Laboratory(BRL))にいた陸軍大尉で数学博士のハーマン・ゴールドスタイン(Herman Goldstine)が説得にあたらなければならなかった。
ゴールドスタインは、軍は他のどんな組織よりも、“計算処理”がネックとなり、それによるリスクに脅かされていると感じていたのである。
ゴールドスタインはペンシルバニア大学教職員委員会議長ジョン・グリスト・ブレイナード(John Grist Brainerd)の承諾を得て、モークリーの考案を弾道学研究室の上司に説得した。
弾道学研究室長と、主任科学者オズワルド・ベブレン(Oswald Veblen)への説明の手筈が整えられた。1943年4月2日、ブレイナード、モークリー、エッカート、それにムーア・スクール教職員1人によって“電子式微分解析機”の提案書が提出された。
これは表題を“大型デジタル計算機”とした場合に予想される疑念を防ぐ意図で付けられたものである。デジタル装置として、提案するコンピュータは、微分方程式(弾道学上の問題で使われる個々の数学方程式)を、微分というよりはむしろ、当時主流をなしていたアプローチであった差分によって解こうとしていた。
この2重の配慮が懐疑主義を緩和することに成功した。
この報告書では、「提案するコンピュータは完全に電子的に駆動し、これまでのあらゆる装置と違って、弾道の軌跡を5分以内に計算することができる」と述べられていた。
提案書を提出した後、エッカートとモークリーは、予想される批判を見越して、裏付けの論拠とデータの作成のために働きづめに働いた。
エッカートが24才の誕生日を迎えた4月9日に、彼らはより詳細な提案書を提示した。
5月、協定書が届けられ、1943年6月5日には、ペンシルバニア大学評議会とアメリカ陸軍軍需品部(U.S.Army Ordnance Department)は、プロジェクト責任者ブレイナード、主任工学技術者エッカートの立ち会いの下に、契約番号W-670-ORD-4926の開発契約書を締結した。
モークリーはプロジェクトの主幹コンサルタントとなり、ゴールドスタインは陸軍の技術担当窓口となった。
正式の契約書が締結されたその機械は、「電子式数値積分器及び計算機」(Electronic Numerical Integrator And Computer)、ENIACと命名された。
*このコンテンツは、ENIAC誕生50周年を記念し、平成8年10〜12月に作成/公開したものです。