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Foresight in sight

日本ユニシスについて

日本ユニシスについて歴史

ENIAC誕生50周年記念 −その歴史を追って−

情報化時代の幕開け VOL.6

真空管18,000本のENIACでは故障しそうな真空管が絶えず取り替えられた。
契約書に署名されてまもなく、ENIACの開発資金がアメリカ陸軍からペンシルバニア大学へ流れ始めた。
コンピュータ開発を推進する原動力は陸軍の弾道学上のニーズにあったが、ENIACの開発は戦争終結までに完了しなかった。
それにもかかわらず、 当初考えていた以上に大きな可能性を予見した軍はENIAC開発プロジェクトへの熱意を失わなかった。
1946年2月のENIACの公開実演は、戦後のデジタル電子計算による革命の始まりを告げる記念碑的できごとであった。しかし、開発の道のりは険しかった。
最初に解決しなければならない重要課題は、信頼性の高い10進計数管の製作であった。
10進計数管は、累算器の中に使われる主要な部品である。累算器は基本的には10個の10進計数管と関連の制御回路で構成されている。累算器は0から100億までの正・負の数字を加算したり保存したりすることができるものであった。
プロジェクトの最初の6ヶ月間に4種の計数管が試されたが、ここで信頼性の壁に直面した。
真空管(その当時の電子工学の中心テーマは真空管にあった)は、まだ相当に不安定で、長時間の演算中に予期せぬ故障が起きた。
真空管はラジオや長距離電話システム、それに高射砲用に軍が開発した火器官制システムなどで使用されているにすぎなかった。
こうした装置は比較的わずかな真空管しか使っていなかったので、なんとか実用に耐えていた。
しかし、ENIACは、17,480本の真空管を毎秒100,000パルスの割合で作動させる設計になっていた。
これは毎秒18億回の故障が発生する可能性があるということである。
デジタル計算では、1つの故障が演算すべき数字をまったく変えてしまう。そこで、以前よりもはるかに精密に真空管の信頼性を、研究することに努力が集中された。
エッカートと彼の工学技術チームはいろいろな真空管を試験し、個々の真空管の寿命を増し、稼働時間をもっと引き延ばすために、真空管はいつ、どうして故障するのかを研究した。
設計を何度も試みて、より低出力でかつ仕事量が最小になる真空管が開発された。
最終的には、真空管は遅かれ早かれその寿命時間内に故障するという現実を踏まえれば、予防保守を徹底することが現実的な解決策であるという結論に達した。
予防保守という概念を導入することによって、故障が発生する前に危険な真空管は取り除かれ、丈夫な真空管のみがENIAC内に残るようになった。
綿密に真空管を研究する一方で、エッカートは、設計と組立について厳格な仕様を設定した。ハンダ付け不良の接合部が1カ所でもあれば、それが機械全体を使用不能にするからである。
ムーア・スクールのENIAC開発プロジェクトの全員で作成した設計標準が順守され、真空管はもちろん抵抗器などの部品は想定した可用性で作動するようになった。
こうした努力によって、ゴールドスタインが楽観的見積値とした12時間を越えてENIACは長時間安定して作動した。
ゴールドスタインは、エッカートを“一流の工学技術者”と呼んだ。エッカートの貢献は、プロジェクトの全期間にわたり他の誰よりも抜きんでていた。
主任工学技術者として、彼は全プロジェクトの中心を占めていた。
一方、モークリーはENIAC開発の着想に大きく貢献している。彼はその着想を、どう実行に移すかに関して幅広い知識を提供してくれた 。
事実、ENIACの契約では、モークリーの地位は、ENIAC工学チームの正規メンバーではなく、主幹コンサルタントとして位置付けられていた。
彼は、物理学者であり、電気工学者ではない上に、ムーア・スクールにも引き続き講座を持っていた。
しかしモークリーは、他の人がようやく理解し始めたばかりの「高速の計算能力をどう活用するか」という概念をはっきりと理解していたのである。
*このコンテンツは、ENIAC誕生50周年を記念し、平成8年10〜12月に作成/公開したものです。