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Foresight in sight

日本ユニシスについて

日本ユニシスグループの歴史

ENIAC誕生50周年記念 −その歴史を追って−

情報化時代の幕開け VOL.7

1962年に撮ったこの1枚の写真は、4つの電子式コンピュータに使用された技術を比較したものである。アバディーン実験場の職員が手にしている基板は左からENIAC、EDVAC、ORDVAC、BRLESC-Iのものであるが急速な技術の進歩が窺える。
開発の全期間を通して、ENIACの研究は秘密のベールに覆われていた。
論文の発表は許されなかったし、会議に参加できるのは初期のメンバーに限られていた。
苦心惨憺をきわめた開発が続けられた。たとえばパルス発生器をめぐってはつぎのようなエピソードがある。
パルス発生器とは、制御信号である“1”と“0”を発生させるものであるが、その設計のためにプロジェクト発足後の最初の夏に参加した大学生ハーマン・ルコフ(Herman Lukoff)は最初の2つの累算器の電源装置の研究に熱中し、海軍の兵役に就くほんの数時間前にその仕事を仕上げて入隊している。
プロジェクト・チームがENIACの実証試験を行なったのは、1944年の5月であった。
2個の累算器がテストされた。
1つは、その値を1から5まで増加させるように作られていた。それからこの数字が、各累算器に内蔵されている制限制御回路を使用して、2個目の装置に1000回転送された。これが、5分の1秒(200ミリ秒)で完了した。
テストが終わると2個目の累算器に、5,000という数字が表示された。
これは純粋数学的にみれば偉大な成果というほどではないが、この実証試験の成功によって、ムーア・スクールのディーン・ハロルド・ペンダー(Dean Harold Pender)をして、
プロジェクトは“楽観的見通しをもてた”
といわしめた。
電気工学分野で経験豊かなペンダーは、将来のリスクを予見できたが、それでも、ENIAC開発チームの技術者には非常な信頼を寄せていた。
しかしほとんどの人は、その機械がいつ稼働するのか依然として疑問視していた。
開発チームは活気づいた。
彼らはもっと新しくもっと洗練された方法で、問題の解決に取り組む用意があった。しかし、戦争が苛烈になるにつれて、納期が最優先され、開発を早期に完了させるために、設計を“凍結”させることが必要になってきた。
それにもかかわらず、戦争の終結が近づくにつれ、ムーア・スクールの工学技術者はもっと複雑なコンピュータの開発を考え始めていた。
モークリーは汎用コンピュータの開発をもくろんでいた。
エッカートはENIACの欠点を克服する方法を提案している。
そこには、ハードウエア設計の基本的要素が多数取り入れられ、それらはその後の計算機械の基礎となるものであった。
ENIACは高速記憶装置にわずか20個の数値しか記憶できなかったので、ENIACの記憶容量をいかに増加させるかが、焦点になった。
*このコンテンツは、ENIAC誕生50周年を記念し、平成8年10〜12月に作成/公開したものです。