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feature vol.19

仲尾修一 引退インタビュー 指導者としてのチャンピオンを目指して
日本ユニシスバドミントン部を支える選手が、また一人ユニフォームを脱いだ。
バドミントン部強豪中学の監督を父に持ち、高校時代は全日本ジュニアシングルス優勝、筑波大学時代はインカレチャンピオンと、華々しい経歴を持つ仲尾修一。
日本ユニシスでは日本チャンピオンを達成し、3度の団体戦優勝に導いた彼が、今、引退を決意した理由(わけ)は・・・?

メンバーの成長が必要だと感じた2007年

キャプテンをつとめた2007年が現役ラストの1年間だったわけですが・・・
「昨年は僕個人の目標は実業団、リーグの連覇を重点に置いていたので残念な1年でした。チーム力はトナミ、東日本、ユニシスの3チーム、差はないと思います。
その中で団体戦3連勝していたのは運もありました。ですから、昨年については運がなかったと思うようにしています。
ただ、チームが坂本・(池田)信太郎に頼りすぎている部分があったような気がするので、二人には見えないところでプレッシャーをかけていたと思います。他のメンバーがもっと成長しなければならないチームだと思いました。
プライベートでは、娘の玲奈がやっと僕に懐いてくれて親としての面目を保ったとホッとしています(笑)」
仲尾修一

大阪に戻ることを断念し日本ユニシスに入社

筑波大学4年の秋リーグ、仲尾・坂本組は、中西率いる日本大学と対戦し勝利
筑波大学4年の秋リーグ。 仲尾・坂本組は、中西率いる日本大学と対戦し勝利
2002年、日本ユニシスに入社された仲尾選手。大学時代も活躍されていましたから、他の実業団からの勧誘も多かったと思いますが?
「今だから言えますが、本当は高校・大学時代にお世話になっていた関西の企業に恩返ししようと、大阪に戻る予定でした。しかし、その企業のバドミントン部存続の危機があり、断念するしかありませんでした。
進路は他にも3つ4つの企業が勧誘に来てくれていましたが、坂本がすでにユニシスに決めていたので、“じゃあ、僕も”って感じであっさり坂本についていきました。
結果論ですが、総合(全日本総合選手権大会・国内最高峰の個人戦)のタイトルも獲れたし、ユニシスを選んで良かったです」
劉永コーチ(写真後方右から二人目)とともに九十九里の海へ
劉永コーチ(写真後方右から二人目)とともに 九十九里の海へ
2002年は仲尾、坂本、そして中西と強豪選手3名が入社して、団体戦初優勝は近づいたように見えましたが、そこから4年間かかりました。
「確かに僕と坂本はインカレチャンピオンですが、中西みたいに最初から全日本で上の方で活躍できるレベルではありませんでした。
実際、社会人1年目のランキングサーキットは16組中13位、全日本実業団では、東日本の片山・久保田組にボコボコ。社会人では第3シードがあったにもかかわらず、ベスト16と全くいいところがありませんでした。
でも、序々にインドネシアコーチの練習が身に付いてきたのか、総合では舛田・大束組に負けてのベスト8、リーグでは半年前にボコボコにされた片山・久保田組にリベンジでき、1年目の終盤あたりから全日本の上の人たちと戦えるくらいになりました。
自分では明らかに強くなっていると実感しましたが、でも、ずっと舛田・大束組だけには勝てなかった。もう一皮剥けることができたのは、2004年にコーチの劉永が来てから福井・信太郎組が非常に強くなって、いい刺激になったのだと思います。
そして、坂本との最後の個人戦となった2005年の全日本総合で、初めて舛田・大束組に勝つことができました。
それまではユニシスから全日本チャンピオンは出ていませんでしたので、 この優勝は僕らだけでなく、チーム全員が自信を深め、勢いというものがつき、団体戦で勝てるようになったのかな?と。チームには初優勝へのプレッシャーと、何よりも“自信”が足りなかったのだと思います」

怪我を乗り越え日本チャンピオン!

大きな怪我をされたこともありましたが、見事復活を遂げてくれました
「3年目の秋に右膝オスグッドの骨折をしてしまい、さらに骨折した骨の破片が膝蓋靭帯に突き刺さって手術をしないといけなくなりました。
2004年のリーグが終わって年を越した1月に手術をし無事成功したのですが、その後のリハビリが非常にきつくて、もう二度と大きな怪我をしたくないと思いましたね。 リハビリは毎日でしたから精神的にも疲労していました。そんな時に今の嫁と付き合うことになり、とても支えになりました。
春になり、復帰初戦のランキングサーキットでは2位、実業団も2位、痛みがなくなり、完全復活した社会人は3位、総合では初優勝、日本リーグ2005もMVPを取って初優勝と、手術をし、嫁と付き合い始めてからの1年は最高の成績を残せました。 ですから、ルックス・スタイルはどうであれ、僕にとって嫁はまさに「勝利の女神」でした。
まぁ、その後めでたく結婚して、子にも恵まれ、嫁はどう思っているかは知りませんが、僕は幸せに暮らせています。ちょっと話はそれましたが、手術してからの僕の好成績については、僕の努力もあるかもしれませんが、僕の中では、坂本と嫁のおかげだと思っています」
仲尾・坂本組
怪我から復帰した2005年、仲尾・坂本組は全日本総合男子ダブルスで初優勝。日本ユニシスから初の日本チャンピオンが誕生した。
日本代表にも招集され、日の丸をつけて戦ったこともありましたが、2006年のトマス杯を最後に代表を辞退されました
「日本代表に選ばれることは非常に名誉なことです。でも、僕の中ではそれだけでした。
代表では、海外の選手のプレーを自分に取り入れて幅を広げる、経験を積んで試合に慣れるといった目的みたいなものがあり、自分のためだけじゃなく、国を背負って試合をしなければならない。しかし、総合で優勝して初めてわかったのですが、僕の場合、日本一になるためにだけ戦っていたことがわかりました。僕には日の丸を背負う資格はなかった・・・。 世界を目指すプレーヤー、他のナショナルメンバー、スタッフに失礼だと思ったことが代表辞退の一番の理由です。
ですから 、代表辞退を悔いのないようにしようと代表最後の日本開催のトマス杯では、合宿も試合も含めて、より一層頑張れたと自分では思っています」
仲尾・川口組
トマス杯2006を最後に日本代表を引退 仲尾(左)・川口組
ところで、仲尾選手というと、どんな大会でも、試合の直前まで毛布を広げて寝ている姿が印象的でした。 毛布の中で精神統一をされているのかな?なんて最初は思っていたのですが・・・
「あれは眠いから寝ていました!僕は、試合は普段と同じ精神状態でプレーできるように心がけていたので、昼食後、眠くなったら寝てた・・という感じです。(笑)
ちなみに、重要な試合の前日はゲーム終盤のことをイメージして、どんな展開になったら相手は嫌だろうかとか考えながら寝ていました。
そんなことのお陰でかわかりませんが、試合では滅多に緊張したことがなくて、社会人になって緊張したのは、2004年トマス杯アジア予選のシンガポール戦と、総合で優勝に近づいてきた試合中(1ゲーム取って、2ゲーム目の中盤あたりから)だけですね」
仲尾選手のメンタルの強さには、本当に驚かされることが多かったです。
仲尾修一

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